天正5年(1577)5月19日付、神崎中務(神前好実)宛
紙本墨書、一紙(折紙)、楠長諳 筆ヵ
天正5年(1577)5月19日付、神崎中務(神前好実)宛
紙本墨書、一紙(折紙)、楠長諳 筆ヵ
天正5年「雑賀成敗」(紀州攻め)で織田方に内応して軍功を挙げた雑賀衆の神崎中務に対して、戦後に織田信長が与えた「天下布武」朱印の感状。本状は神前氏(紀州名草郡神前郷居住の在地土豪)相伝の朱印状として元々は「神前文書」に収められていたもので、織田信長研究でも引用されてきた著名な一次史料。ラウレス神父が反町茂雄氏の古書肆・弘文荘より入手した。
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天正8年(1580)4月23日付、坂本大学助宛
紙本墨書、一紙(軸装)
主君大友氏に対して謀反を起こした田北大和入道(紹鉄)の逃亡を豊後国日田郡五馬庄で阻止し、大和入道の被官・田北大膳入道を討ち取った坂本(日田郡衆)に対して大友宗麟(圓斎)が与えた感状。本状の朱印はキリスト教受洗後に宗麟が使用するようになったもので、洗礼名フランシスコ(Francisco)からとったFRCOを刻した円形ローマ字印である。
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(天正14年(1586)頃)5月3日付、船越景直宛
紙本墨書、一幅(軸装)
明後日(端午の節句)到来への謝意と、古田織部殿も来るので時間がかかっても待つ旨、船越景直へ伝えるキリシタン大名・高山右近の書状。高山・古田・船越の三者は豊臣政権の大名であると同時に茶の湯に造詣が深く、また古田と船越は数多の名茶器を所持する茶人大名であった。原蔵者は明治初年の高槻藩貢士・中村元嘉(のち大審院判事)で、渋谷治師による寄贈品。
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寛文7年(1667)11月7日付、臼杵藩切支丹穿鑿奉行衆宛
久取村庄屋助右衛門・誓願寺村弁指久左衛門外五名連署
紙本墨書、一紙(切紙)
丹生郷誓願寺村与左衛門の下人・平蔵が病死したものの、彼が専想寺檀家の「古きりしたんころび」であるため庄屋・弁指・五人組を動員して専想寺への遺骸の搬送を見届けた旨の村方代表者連署の報告。転びキリシタンの埋葬に際して、厳禁の自葬が行わなかったことを村方で請け負う内容。なお、当証文作成当時の豊後国内では、多数の潜伏キリシタンが露見・捕縛される「豊後崩れ」が発生していた。
・豊臣秀吉書状(大友宗麟宛)天正14年(1586)8月14日付 KBsMs:To93:1
・黒田孝高書状(鍋島茂里宛)慶長5年(1600)10月21日付
・板倉重宗書状(八条宮家士二名宛)寛永11年(1634)11月13日付 KBs189:186:1
・細川忠興書状(熊本藩士宛)1月19日付 KBsMs:H941:2 など